自然ウォッチング雑記

目 次

はじめに

 小さい頃から自然の営みを眺めるのが好きだった私は、身近にいる小さな生き物や鳥たちをいつまでも飽きずに眺めていたものだった。そんな性格だから住まう所も大都会は敬遠し、自然豊かな岩手に落ち着いたのだろう。

 今では、単眼鏡をポケットに入れてジョギングをしながら、身近な自然の様々なシーンを眺めて楽しんでいる。そうして得た様々な見識や推理・推測、たわごとなどを書き綴ったものがこの「自然ウォッチング雑記」である。

 さらに最近、コロナ対策で全国民に給付された10万円を使って望遠の利くカメラを買い求めた。最近のカメラは一昔前よりかなり進歩している。以前なら巨大な望遠レンズを付けて三脚あるいは一脚で支えて撮らなければならないような映像が、軽いコンパクトなデジタルカメラで手持ちで撮れるのだ!

 そうやって撮り貯めた写真や動画を加えてこのホームページを作っている。しかし何分、仕事の合間を縫ってやるので、なかなか進まないのが現状だ。出来上がった項目から順次掲載していくので、気長に見守っていただければ幸いである。

 また、自然を見つめるうちに、「こんなに壮大でかつ緻密に設計された創造物や仕組みは、とても人智の及ぶものではない。キリストが言われるように、神が創られたものにちがいない」と思えるようになってくる(ただし私はキリスト教徒では無い)。「神は自然そのものであり、自然こそ神ではないだろうか」と感じる今日この頃である。

時間の長さについて

 ここで皆さんに一つ考えて欲しいことがある。「今」という時間は、いったいどれ位の長さなのだろうか? ということである。

 なんとなく、「一日くらい」「一時間くらい」「一秒くらい」と漠然と思われているかもしれない。しかし、物理的に考えてみると、例え1秒でも最初の0.1秒が経過した時点で、最初の0.1秒はすでに過去となってしまい「今」ではなくなる。だから1秒間全体が「今」とは言えないだろう。

 では、0.1秒が「今」と言えるかと考えると、最初の0.01秒が経過した時点でその部分は過去となってしまうので、0.1秒間全体が「今」とは言えないだろう。

 同様に0.01秒はどうだろうと考えても、0.01秒間全体が「今」とは言えないことに気付くだろう。即ちどんなに短い時間を考えてもその時間全体は「今」ではないことになる。

 これを突き詰めて考えていくと、「今」というのは時間の長さが無い ということになる。

 時間の流れを表すのに、過去、現在、未来 と順に並べるのが一般的だが、実際は過去と未来だけが存在し、過去と未来の接する瞬間が現在、すなわち「今」であり、その長さは0なのである。

 では、なぜ我々は「今」をある程度長さのある時間だと漠然と思っているのだろうか? それは、「記憶」があるからに他ならない。「記憶」があるからこそ今、目の前で過ぎ去った瞬間的な出来事を脳裏に刻むことができるし、それらの記憶をつなぎ合わせて今何が起こったかを認識することができるのだ。もし「記憶」が無ければ、過ぎ去ったことは瞬時に消え去り、目の前で何が起こっているのか分からないし、過ぎ去った時間の長さを感じることもできないだろう。

 地球誕生からすでに46億年程経過しているが、誰も「あ〜長かった、46億年!」と体験的に感じることはできないのだ。すなわち46億年もアッという間に過ぎ去ったことになる。

 キリスト教では「人間も動物や植物も、この世のものは全て神が、アッと言う間に創られた」ということになっているそうだが、進化論を学んだ私たちは「アッと言う間に創られた」という点に疑問を持つのが当然だろう。しかし、前述のように考えてみると、この教えはあながち間違ってはいないのではないだろうか、と思えてくる。

 この世に存在する動物や植物から天体に至るまで、あらゆることはとても複雑でしかも精巧な仕組みで創られている。放っておいて勝手に出来上がったシステムとはとても思えない。自然がこのシステムを創り上げたのなら、「自然」こそが神ではないのだろうか?

 私は日々、単眼鏡や最新の高性能カメラで自然に接しているうちに、このような考えを深めるに至っている。

2021(令和3)年6月27日 
濱田 篤重   



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